インプットと幸福 [駄文]

特に落としどころのない話をだらだらと。

小説にしろ、音楽にしろ、ある程度以上の数の作品をまともに受け取っていれば、それらの価値が相対化されてくる。

はじめのうちは、「これはあれよりも『好き』」だったのが、「これはあれよりも『良い』」になってくる(ガチガチの相対主義なら「作品に善し悪しなんて存在しない」だなんてひどい言いがかりをつけてくるかもしれないので、「どこそこの部分が」と但し書きをつける必要があるかもしれないが)。つまりは、ある程度客観的な評価が作品に対してできるようになるわけだ。

そうすると、あー、この作品は底が浅いなあ、だなんていう感覚がわかってくる。底が浅いというのは、能力やら思慮が足りてないということだ(僕としては圧倒的に「思慮の足りなさ」という意味で使うことが多いように思う)。

作る側としては、自分が「好き」だとか「かっこいい」だとか「深い」とか思うものを詰め込むわけで、作品にはいわば自分の思う「良さ」というのが凝縮されているはずだ。だから、底が浅いという評価は、作者の求める「良さ」というのがその程度であるということを意味する。要は、誰でも知っている知識をしたり顔で紹介するみたいな、誰も凄いとも良いとも思わないものを「凄いだろ!」「良いだろ!」って大声で主張しているに等しい。

じゃあ底が浅いという状態を脱却するにはどうすればいいのか、と考えると、自分の求める「良さ」を洗練化していけばいいという話になる。そこで手っ取り早いのは、インプットを増やすこと。つまりは、自分の中の批評家(=受け手)を育てるということ。そうすれば、最初に述べたように、価値を相対化し、ある程度客観的なレベルで良さというものを考えることができる。

もちろん、自分でひたすら試行錯誤して「良さ」を追求するという選択肢もある。だけれど、それは何より手間がかかるし、せっかく頑張って見つけた「良さ」というのも実は月並みで、単なる「車輪の再発明」かもしれない(wikipedia)。だから、自分で探すことそれ自体が目的でないのなら、素直に既存の作品に触れ先人の知恵に学ぶことの方が有用である。ニュートン先生曰く、「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」。

ただ、インプットを増やすことも良いことばかりではない。「良さ」だけが先行してもなかなかつらいものがあるのだ。つまり、「自分で『良い』と思える水準のものを自分で作れない」という事態に陥りやすい。そうすると、創作が停滞してしまう(そうならないためにはおそらく批評家を飼い慣らしていく必要があるのだと思うが、その術が自分にもまだわからないので誰かいい案があったら是非教えていただきたい)。

しかしそれに比べて、井の中の蛙でいるままでいるのは実に楽である。他人の目を気にすることもなく、自分の求める「良さ」に疑問を抱くこともなく、創作し続けていられる。

そこは結構本質的なトレードオフなのかもしれない。クオリティをいったん追求し始めるようになると、瞬間の幸福の強度は上がるかもしれないが、平均的な幸福の量は減る。クオリティをあきらめれば、平均的な幸福の量は多くなるかもしれないが、かわりに格別な作品を味わうこともできない。感受性の高さと平均的な幸福量はトレードオフの関係にある。

その辺は食べ物に似ていて、おいしさというものを追求しなければどんな食べ物でもそこそこ食えるのと同じで、いったんおいしさを追求し出すと、格別のおいしさというものを理解できるかわりに、「まずくて食えない」という水準もできてくる。一方、おいしさというものを追求しなければどんな食べ物でもそこそこ食えて適当においしい。しかしそれは限定された楽しみに過ぎない。

あんまり意識はしていないけど、味覚も鍛えられて作られるものだ。味覚も文化的な所産なので、ある程度の水準以上の「おいしさ」を味わうには、相応の学習が必要である。微妙な差異が感じ取れるようになって、初めてそのおいしさがわかる。

たとえば僕はアルコールというものをほとんど飲めないので、酒の味はわからない。そうすると、ある程度以上の飲み手ならわかる差異がわからなかったりする。あるいは、違いがあることはわかっても、どちらが「良い」かどころか、「好き」かすらわからない。違いがわからないから、安酒だろうと高級酒だろうと与える快楽の幅はさしてかわらない。反対に、違いのわかる人にとっては、一滴も飲むことが耐えられないようなものが存在するかわりに、うまい酒を僕よりも楽しめるわけである。

わかる、ということは喜びも深いが絶望もまた深いってのはどうしようもなく紋切り型で陳腐ないいぐさだけれども、ある種の真理を突いている(そういや、岡崎二郎の短篇で「最高の晩餐」ってのがありましたね。ここで紹介する時点で半分ネタバレみたいなものだけど、あしからず)

わからないものを放置するのは楽だし、事実生きる上では多くの「わからない」を放置せざるをえない。第一、人間の時間は有限なのだ。それに一方で、「わかり過ぎる」というのもかえってつらいことになるかもしれない。

だから、一概にどうすればよいという解は出てこない。インプットを単純に増やせば良いという話ではないので、「何をどの程度インプットすべきか」、ということに関してはまた個別に考える必要があるんだろう。

結局のところ、純粋な受け手でいる間は自分でその境界線を決めるしかないのだろう。身も蓋もないけれど。極端な話、まずいファストフードだけ食べ比べて、「○○の××バーガーは至高」、って勝手に思っていて別に差し支えないわけである。どんなにおぞましいことであれ、自己完結している分には何をどう思おうと自由なのだし。

でも、ひとたび送り手の側に回るならばそうじゃない、と思いたい。ただ、その話を始めると長くなりそうなので、今日はこの辺で。


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