あるフィクション [駄文]

フィクションである。


昔、ひたすらに日記をつけていた時期があった。
日記と呼ぶのもためらわれるような文字の羅列。それを書き記すことを日々の励みとして過ごしていた日々があった。
当時そんなに書き記すべき事柄があったのかというと、実際にはそのまったく逆で、日々の中に特別なことは何一つ起こらなかった。いや、そもそも起こる余地がなかった。自分の生活は部屋の中で完結していたからである。


療養中の生活を一言で言い表すと、「無為」であった。
何かしようとも思えず、実際に何もできない状態が続いた。寝床に横になったまま、何もできずに時間が過ぎていくだけだった。
目覚めている間、乾いた意識が始終じりじりと弱火で炙られているようで、安息を得る暇はなかった。
朝日が昇るとともに否応なしに目は醒めた。覚醒は苦痛とともにあった。眠りは稀少であった。日中は、朦朧とした意識の中でひたすらに夜の訪れを待った。夜が来れば、ただ安らかな眠りが訪れることをのみ願った。
願いの多くは聞き届けられなかった。夢を見れば悪夢で、ともすれば眠りにつく前よりも疲労がたまっていた。あるいは夢ともうつつともしれないざらざらとした中間の状態が体力を奪った。
逃げ場はどこにもなかった。
自分自身が、あらゆる喜びから切り離されていた。記憶は断絶し、昨日の自分と今日の自分は連続していなかった。灰色のフィルターに全てが覆われてしまったようで、自分の部屋にさえ自分の居場所はなかった。文字を読めど心は躍らず、音楽は心に触れず、かつてそこに感興を見出したはずの絵も何ももたらしてはくれなかった。
自分にできるのは何もせずにただ待つことだけだった。
劇的に状態が改善することはあり得ない。薬剤の効果は常に限定的だ。日が一日ずつ長くなっていっても気づかないように、目に見えて効果が出ることはない。
思考は阻害される。不安がささやく。それでもただただ嵐が去るのを待つことしかできなかった。
そんな無為の日々の中で、唯一自分に能動的に成し得たのが日記をつけることだった。浮かんでは沈む思考の断片をかき集めてはテキストファイルに打ち込んだ。
日々の、時々の、あるいはほんの一瞬の思考の運動を切り取り、文字として記録することだけが、やがて訪れる破滅に対してできる唯一の反抗のように思えた。記述されたのはしばしば脈絡のない文章であり、ときには無意味な文字列に過ぎないときすらあった。
仮にこの「落とし穴」から抜け出すことができないとしても、明日につながる何らかの痕跡を残すことができるならばよいと考えていた。ただ漠然と過ぎていく日々に流され無為の忘却の彼方へと埋もれることを拒否し、媒体に自分の存在の記録を刻みつけることでささやかな抵抗を試みたのであった。


そうした行為に何らかの効果があったのかはわからない。単に薬が効いただけかもしれないし、自然な回復力が働いたのかもしれない。実際的な部分での「意味」があったのかはわからない。
ただ少なくとも、手元に遺されたファイルからは書き記した人物の真剣さ・必死さは伝わってくる。その人物の意志がきっと今の自分を生かしているのだろうという淡い確信はある。


時が過ぎ、恢復とともに、日記をつける習慣はいつの間にかなくなってしまった。
記憶は断ち切られ、遠い過去を自らの経験として思い出すことはできない。昨日の自分は今日の自分ではないのだから。ただ文章の形で遺された思考の痕跡から推測することができるだけである。
だからこの文章は二重の意味でフィクションであるといえるのかもしれない。

「あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで」

――シェイクスピア『マクベス』 福田恆存訳


漠然と日々に流されていくのは今日も変わらない。
しかし、過去の自分、かつての自分、とうにいない誰かが遺した文章を読み返すたびに、絶え間ない日々の忘却に対するこのささやかな抵抗のことを思い出すのである。


さよならリアリティ:ある寓話 [駄文]

・エネルギーの喪失(6月)

その日は突然やってきた。六月の半ばも過ぎた頃である。

朝、起きる。違和感。何かが違う。とても疲れている。電池が切れたような気分。

何をするにも疲れる。眠っても疲れは取れない。そんな日が続く。ひたすら疲労感に満ちている。

何もする気が起きない。やる気がない、というレベルのものではない。手が付かない。何かを自発的に始めようという気になれないのだ。椅子に座ったまま、布団に寝転がったまま、時間が過ぎていく。

メールが書けない。文章が書けない。とにかく頭が回らない。人の話が理解できない。言葉が出てこない。覚えていられない。決断することができない。

何もしたくない。パソコンに触れるのすら嫌だ。

やりたいことができなくてつらい。エネルギーがないのだ。やりたいことはあるはずなのに、それに取り組むことができない。

 

・大変申し訳ございません(7~8月)

頭が回らない状態が続いている。眠りが浅い。気分が暗くなる。

理由のない恐怖に襲われる。あるいは不安。明確とした理由もないのにただ恐ろしい。

眠れなくなる。寝付きが悪い。夜中に何度も目が醒める。ベッドのきしみで目が醒める。カーテンのわずかな隙間から洩れた光で目が醒める。朦朧と覚醒と睡眠の間を漂う。

一日中動けない。ただ、今この瞬間が過ぎ去って欲しいと願い続ける。いくら横になっていても眠りは訪れない。じりじりと炙られるような朦朧がやってくるだけである。朝、目は早く醒め、夜は寝付けない。

そのうちに、随分と申し訳ない気分になってきた。どうして自分は他人に迷惑をかけてばかりいるのか。どうして自分はあたら人生の時間を浪費してしまったのか。なぜチャンスがあったのに安定した職業についていないのか。なぜもっと頑張らなかったのか。何もかも間違っていた気がする。結局自分は張り子の虎で、能力もないのにある振りをして周囲の人間をずっと騙してきたのではないのか。そうだ、周りの人をずっと騙してきたのだ。

ありとあらゆるものに対して申し訳ない気持ちに満たされる。同時に、他者と関わるのが恐ろしくてたまらなくなる。

 

・色のない日々(9月~)

感情が喪失した。何もする気が起きない。かといって暗い気分でもない。

ただひたすらフラットな気分である。何をしても楽しいという気持ちが湧いてこない。反面、思考がひたすらに暗い未来を指し示しても何も感じない。

ものを見ても、かつてそれを見て覚えたような感情が想起されない。絵を観ても音楽を聴いても、心は動かない。ただわずらわしいだけである。色々な記憶を呼び起こしても、それらは輝きを失っている。他人事なのだ。

人に会っても、その人に対して抱いていたはずの好もしい感情jは現れない。何も感じない。ゆえに、どう振る舞って良いのかわからない。ひどく恐ろしい。

私はもう自分ではないのだ、という確信めいたひらめきが思考を支配する。

自分はもう過去の自分ではないのに、他者は過去の自分のままだと思って自分に接してくる。それがつらい。過去にできたことはもはや何もできないのだ。ここにいるのは私の形をした別人なのだと言い訳したくなる。頭は回らない。表情は生硬。歩く死人だ。

 

・現状

現在、療養および治療の甲斐あってか、少しずつ人間性を回復しつつあるし、ほんのわずかにではあるが、感情の動きみたいなものも戻り始めている。社会復帰に向けてリハビリを始めてもいる(勿論上記に書いたようなどん底の状態と比べてであって、復旧とまではなかなかいかない。その上、身分が不安定なままで不安はたえない)

読書もできるようになったし、一日一本くらいなら映画をみることもできるようになった。

そうはいっても、大部分の機能はまだ失われたままで、現実を把握する際にもどうにも精彩の欠けたフィルムを観ている感はぬぐえない。何より、音楽を聴いてもいまだに楽しめないのは自分にとって非常に寂しい。回復に関しては、時が全てを解決する、というわけでもないが、まあ人事を尽くしつつ祈って待つより他あるまい。

 

今回どうしてこんな文章を書いたかというと、こういった文章を書けるまでは回復した、という一段落の報告と、迷惑&心配をおかけした関係各所への説明、という意味合いが大きい。すいません、こんな感じだったんです、と。

いつかリアリティが回復する日が来ることを祈りつつ、それではまた。


非計画的な身体 [駄文]

計画的に行動するということができない。

いったん片付けても部屋は荒れていくばかりだし、タスクもだいたい〆切り間際になってあたふたする。学生時代、計画的に毎日コツコツ予習・復習をするという友人の話を聞いては驚嘆したものである。

一度、熱にとらわれてしまったら、とにかく完了するまで(あるいは諦めて放棄するまで)とまらない。ゲームだろうが、音楽だろうが、読書だろうが、とまらない。「あ、これやってみよう」と始めてしまったこと――例えばブログの記事を書くだとか――に没頭してしまう。それがたとえ試験の前日だったとしても。

衝動的に行動してしまうというのは、人間としてどうかということをさておけば、まあ生き物としては自然なことなのだと思う。明日の生存もわからない中で、毎日コツコツ~というのはばかげている。

とはいえ、現代社会で明日すぐ死ぬ、というのは蓋然性が高いとはいえないので、いつも直近のことを考えていては色々不都合が生じる。完全に衝動的でもなく、適度に未来のことを考えつつ、その中間のところを探っていかないといけない。

色々対応策を考えては来たのだけれど、わかったのは意志の力はあてにならない、ということ。

意志の力は有限なので、嫌なことをするのに使っているとすぐになくなってしまう。そうすると、元気がないときにはなにもできないということになってしまう。その状態で無理に動かそうとすると擦り切れてしまって、より悪い状態になる。だから、それを当てにしないようにプランを立てないといけない。実際、やり始めたらやる気が出る、という側面もあるので、意志なんてものは原動力としてはせいぜい着火剤ぐらいにしか使えないという認識でいて計画を立てた方がかえって良い気がする。だが、未だ有効な計画の立て方というのは見出されていない。

いっそ、自分というのは他人という理解でいた方がうまくいくのだろう。計画を立てる「私」はやる気に満ちあふれていて色々なことの重要性を理解しているけれども、実行する「私」はそうではない。やる気がなく、ものわかりも悪いし、ともすればサボろうとする。そういう気まぐれな他者とどうやって付き合っていくか、あるいはどうやって動かすか、ってのが大きな課題。


小説のこと [駄文]

ふと思い立って、即興小説トレーニングなどというものをはじめてみた。

http://sokkyo-shosetsu.com/author.php?id=79697939

今でこそ音楽畑にいるけれども、昔の自分は文芸畑の人間だった。

僕が中学生だった頃はインターネットというものがまだ選ばれた少数の人のものだったし、CDやカセットをたくさん買えるというような環境にもなかったので、音楽にはあまり触れることはなかった。ゲームは好きだったけど、これまた数買えるというものでもなかったので四六時中やっていたというわけではない。辺境の地には娯楽もなく、加えて運動も勉強も人付き合いも面倒、となれば勢い時間をもてあます。

だからまあ、本ばかり読んでいた。中高生向けという区分もあまりなかったような時代だったので自分の興味に合った本を適当に探して読んでいた。ネットで検索するという行為も一般的でなかったから、膚に合う作家を見つけてはその人の著書を探して読んでいた。

どうして小説を書きたいなどと思いはじめたのかはよく覚えていないけれど、中学生の終わり頃には何か自分でもそういうものが書けたら楽しいだろうな、というのを漠然と思うようになっていた。

実際に書き始めたのは、PCが導入されたのが大きい。何分字が汚かったのもあるけれど、文明の利器を手にした高揚感的なものも少なからずあったかもしれない。

そうやって熱に浮かされながら書いた最初期の小説は1200字原稿にして120枚以上という長大なものとなったけれども、結局途中で破綻し、不世出の未完の傑作としてハードディスクの底で永遠に眠り続けている。

高校の頃はあてどもなく文字を書いては放り投げ、というのを繰り返して、結局完結しているのはほんの数編の短篇しかない(それらは一応ここで読める)。書けば書くほどに書くのが苦手になっていくという感じで、目標は高くなっていくのに対して能力が上がらない。そのうちに、ほとんど文章というものが書けなくなってしまった(代わりにはじめてみたのが作曲で~というのはまた別の話)。

忙しく日々を過ごしていくうちに、あんなに読書が好きだった少年もいつのまにか本を集めるだけの生き物に成り果ててしまった。文章をタイプするだけで喜んでいたのに、今では自分の書いた文章の切れ端を読み返してはため息をつくようになってしまった。文芸とはいつのまにか疎遠になってしまったようだ。

だが、文芸に関する想いが断ち切れてしまったかというと、そうではない。小説を買い続けるのも単なる惰性以上のものがきっとあるのだろうし、幻滅しながら自分の書いた文章を読み返すのも、創作への想いがくすぶり続けているからだ。

だから、今一度、書く練習というのを始めてみよう思う。

上手いものは書けないだろうし、小洒落たオチなんてものは到底つけられないだろう。評価に値するレベルになるまでには随分時間がかかるだろう。そもそもそこまで到達できるかすらわからない。だが、書き始めずに完成するなんてことはあり得ない。

未練がましいだけなのかもしれない。過去の想い出にすがっているだけなのかもしれない。それでも書きたいという想いは強い。駄文を書き散らすことによってしか癒されない渇きというのもおそらくあるのだろう。それを少しでも緩和するために、何か少しでも前に進むための行動をとろうと思う。

まあ、三日坊主かもしれないけどさ。

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過去の断片や即興小説を完成させたものは

http://noctphaeism.tumblr.com/

に置いていく予定。


インプットと幸福 [駄文]

特に落としどころのない話をだらだらと。

小説にしろ、音楽にしろ、ある程度以上の数の作品をまともに受け取っていれば、それらの価値が相対化されてくる。

はじめのうちは、「これはあれよりも『好き』」だったのが、「これはあれよりも『良い』」になってくる(ガチガチの相対主義なら「作品に善し悪しなんて存在しない」だなんてひどい言いがかりをつけてくるかもしれないので、「どこそこの部分が」と但し書きをつける必要があるかもしれないが)。つまりは、ある程度客観的な評価が作品に対してできるようになるわけだ。

そうすると、あー、この作品は底が浅いなあ、だなんていう感覚がわかってくる。底が浅いというのは、能力やら思慮が足りてないということだ(僕としては圧倒的に「思慮の足りなさ」という意味で使うことが多いように思う)。

作る側としては、自分が「好き」だとか「かっこいい」だとか「深い」とか思うものを詰め込むわけで、作品にはいわば自分の思う「良さ」というのが凝縮されているはずだ。だから、底が浅いという評価は、作者の求める「良さ」というのがその程度であるということを意味する。要は、誰でも知っている知識をしたり顔で紹介するみたいな、誰も凄いとも良いとも思わないものを「凄いだろ!」「良いだろ!」って大声で主張しているに等しい。

じゃあ底が浅いという状態を脱却するにはどうすればいいのか、と考えると、自分の求める「良さ」を洗練化していけばいいという話になる。そこで手っ取り早いのは、インプットを増やすこと。つまりは、自分の中の批評家(=受け手)を育てるということ。そうすれば、最初に述べたように、価値を相対化し、ある程度客観的なレベルで良さというものを考えることができる。

もちろん、自分でひたすら試行錯誤して「良さ」を追求するという選択肢もある。だけれど、それは何より手間がかかるし、せっかく頑張って見つけた「良さ」というのも実は月並みで、単なる「車輪の再発明」かもしれない(wikipedia)。だから、自分で探すことそれ自体が目的でないのなら、素直に既存の作品に触れ先人の知恵に学ぶことの方が有用である。ニュートン先生曰く、「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」。

ただ、インプットを増やすことも良いことばかりではない。「良さ」だけが先行してもなかなかつらいものがあるのだ。つまり、「自分で『良い』と思える水準のものを自分で作れない」という事態に陥りやすい。そうすると、創作が停滞してしまう(そうならないためにはおそらく批評家を飼い慣らしていく必要があるのだと思うが、その術が自分にもまだわからないので誰かいい案があったら是非教えていただきたい)。

しかしそれに比べて、井の中の蛙でいるままでいるのは実に楽である。他人の目を気にすることもなく、自分の求める「良さ」に疑問を抱くこともなく、創作し続けていられる。

そこは結構本質的なトレードオフなのかもしれない。クオリティをいったん追求し始めるようになると、瞬間の幸福の強度は上がるかもしれないが、平均的な幸福の量は減る。クオリティをあきらめれば、平均的な幸福の量は多くなるかもしれないが、かわりに格別な作品を味わうこともできない。感受性の高さと平均的な幸福量はトレードオフの関係にある。

その辺は食べ物に似ていて、おいしさというものを追求しなければどんな食べ物でもそこそこ食えるのと同じで、いったんおいしさを追求し出すと、格別のおいしさというものを理解できるかわりに、「まずくて食えない」という水準もできてくる。一方、おいしさというものを追求しなければどんな食べ物でもそこそこ食えて適当においしい。しかしそれは限定された楽しみに過ぎない。

あんまり意識はしていないけど、味覚も鍛えられて作られるものだ。味覚も文化的な所産なので、ある程度の水準以上の「おいしさ」を味わうには、相応の学習が必要である。微妙な差異が感じ取れるようになって、初めてそのおいしさがわかる。

たとえば僕はアルコールというものをほとんど飲めないので、酒の味はわからない。そうすると、ある程度以上の飲み手ならわかる差異がわからなかったりする。あるいは、違いがあることはわかっても、どちらが「良い」かどころか、「好き」かすらわからない。違いがわからないから、安酒だろうと高級酒だろうと与える快楽の幅はさしてかわらない。反対に、違いのわかる人にとっては、一滴も飲むことが耐えられないようなものが存在するかわりに、うまい酒を僕よりも楽しめるわけである。

わかる、ということは喜びも深いが絶望もまた深いってのはどうしようもなく紋切り型で陳腐ないいぐさだけれども、ある種の真理を突いている(そういや、岡崎二郎の短篇で「最高の晩餐」ってのがありましたね。ここで紹介する時点で半分ネタバレみたいなものだけど、あしからず)

わからないものを放置するのは楽だし、事実生きる上では多くの「わからない」を放置せざるをえない。第一、人間の時間は有限なのだ。それに一方で、「わかり過ぎる」というのもかえってつらいことになるかもしれない。

だから、一概にどうすればよいという解は出てこない。インプットを単純に増やせば良いという話ではないので、「何をどの程度インプットすべきか」、ということに関してはまた個別に考える必要があるんだろう。

結局のところ、純粋な受け手でいる間は自分でその境界線を決めるしかないのだろう。身も蓋もないけれど。極端な話、まずいファストフードだけ食べ比べて、「○○の××バーガーは至高」、って勝手に思っていて別に差し支えないわけである。どんなにおぞましいことであれ、自己完結している分には何をどう思おうと自由なのだし。

でも、ひとたび送り手の側に回るならばそうじゃない、と思いたい。ただ、その話を始めると長くなりそうなので、今日はこの辺で。


右腕が筋肉痛… [駄文]

確定ですね、という話を。

雑記以上に駄文というか一種のカタルシス? あるいは自己浄化? なのでまあ華麗にスルーするのがよろしいかと思われますよ。乱文悪文長文ですし。

それでも読む


春休みと… [駄文]

あまりに長くなったので駄文行き決定。

読む


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