「価値」に関する二つの視点 [雑記(近況報告)]
素朴に考えてみれば、ある作品の「価値」というものを考える上で二つの視点があるように思う。
ひとつは、作品それ自体の評価のみによってその作品の価値が決まるという視点。
もうひとつは、作品の評価とは独立な何らかの要因によって作品の価値が決まるという視点。
(そもそも「作品の評価」というものを定義するのは難しいけれど、ここでは「各人の審美観によって定まる基準」とでもしておこう。別に自分が作品を鑑賞したときの感動の度合いでもいいかもしれない。ここではその評価は基本的に作品そのものによって決まると仮定しておこう。あたかも関数のように、ある作品が目の前におかれるといつでも同じ評価ポイントが表示されるという風に)
前者の視点を突き詰めていけば、作品の価値は最終的には自分の審美基準によって決まるのだろうし、後者の視点を突き詰めていけば「ヒットチャートの順位」とか「再生数」とかになるのかもしれない*1。
これら視点の違いが意味するのは結局の所、作品に対する立場の違いだろう。
作品それ自体を味わうことが目的である場合、自分にとってそれが「良い」ものでないといけないわけだ。最終的に自分がその作品をどう評価するかが問題なわけで、他人がどう評価していようと関係がない。まあ、これは直観的にわかりやすい。
反対に、作品それ自体が手段でしかないという場合は、自分が作品をどう評価するかということはどうでもいい。
絵画商みたいなものを考えればわかりやすいかもしれない。
お金を稼ぐのが唯一の目的だとすれば、自分が絵をどう評価するかを考慮しなくてもいい。市場で何が売れるかだけわかっていれば商売は成立しうる。要するに売れるかどうかの目利きだけできれば良いわけで、中身は何でもいい。それこそ「闇夜の黒牛」で何ら構わないわけだ。
自分の嗜好に対しては鈍感で構わないが、しかし市場の動きには敏感でなければならない。なぜなら流行廃りは昨今ますます激しいからで、素早く流行を察知し、モードに乗り遅れないかが重要となる。したがって、絵画商にとっての作品の価値は流行に依存する。
実生活で考えれば、たとえばコミュニケーションの円滑化にしたり、あるいはある種のステイタスを造り出すための小道具として作品があって、作品の価値はその有用性で決まると考えるということだろう。話題の作品はコミュニケーションを盛り上げるし、小洒落た趣味は好感度を上げるかもしれない。「みんながそれを消費していること」または「それを消費していることをみんなが評価すること」こそが「作品の価値」ということだ。
…勿論、実際には多かれ少なかれ両方の視点を我々は持ち合わせているし、それに私もどちらが悪いと非難したいわけでもない。
ただ、創作をするときにはこの二つの視点のことを考えておいた方がいいのかもしれない。
自分は「納得のいく作品作る」ことが重要なのか、それとも「みんなに流通する」ことの方が重要なのか。
「作品自体の価値を見出してくれる人」に届けたいのか、「作品を消費してくれる人」に届けたいのか*2。
自分が何をしたいのかを考えないと、よくよく迷うことになりそうだ。
*1 大衆向け、といってメジャーな作品を避けてマイナーな作品を好むのも含む。
*2 とはいっても流通しないことには価値を見出してくれる人にも届かないわけで…。「良いものは必ず評価される」は神話の類だというから、仮に良いものができたとしてもその辺ジレンマ。
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