夢の終わりと「大人」の死:「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版」感想 [読書/感想/レビュー]



昨日、エヴァが終わった。

永遠に終わらないと思った物語が終わった。
長い夢が、25年分の愛や憎しみやらがないまぜになった屈折した思いを引き連れて終わったのだった。
後に残るのは、一抹の寂しさと、それと幾分かほっとしたような気分。
そう、エヴァは終わったのだ。

……終わった終わったとばかり言っていてもらちがあかないので、
ぽつぽつと気持ちを整理していきたいと思う。

おことわり:

・観たことを前提に書かれているので、もちろんネタバレを含む
・他の感想なり記事なりは読まずに書いているので重複する指摘を含む可能性がある
・新劇は各一回ずつしか観ていないので細部において不正確かも


■終活、あるいは計画された終焉

振り返ってみるとなるほど終わりは準備されていた。

まずタイトル。
「ヱヴァ」ってなんだよ・・・って最初は思っていたけれど、

エヴァンゲリオンとヱヴァンゲリヲン、違いは「エ/ヱ」と「オ/ヲ」。

旧シリーズ(テレビ版・旧劇)は、ア行。新劇場版は、ワ行。
前者が「始まりの」エヴァだとすれば、
後者は「終わりの」エヴァということになる。

始まりと終わり――「私はアルファにしてオメガである」*1というわけだ。
ここで暗示されているのは新劇場版は単に旧シリーズのリメイクではなく、旧シリーズとコミで「ひとつの」物語であるということ。

個別の物語ではなく、「ひと続き」であること。

そこではじめてタイトルについている反復記号(これね→:||)がやっと呑み込める。
これ、そのまま読めば単に「繰り返し」なわけなので、予告を見た瞬間「終わらんやんけ!」と突っ込みをいれた*2ものだったけれど、
旧シリーズとひと続きと考えれば、新劇場版は2回目ということなので次のパートに進む、ないしはそこで終了するということになる。


思えば僕は、新劇場版をずっと快く思っていなかった。
リメイクとしてテレビ版・旧劇場版を上書きし、いわば黒歴史として否定するものなんじゃないかとずっと思っていたから。
だってアスカも名字変わってるし、真希波とかいう知らん人がいるし……。

ごくごく個人的な感情をいえば、リメイクというもの一般がそもそも好きではない。
当時の思い出にいったい何を付け加えるというのだろう? 
リメイクが「正しい」とすれば、オリジナルに対して感じた想いはなんだったのだろう。
作り手にはきっとそんなつもりはないのだろうけど、まるでオリジナルの思い出が否定されるような、踏みにじられるような気がすることがある。
旧シリーズが「なかったこと」にされるのは心情的にはなんとも許しがたかった。
それゆえQが人々を困惑させたときに内心快哉をあげたのだし、なんならシン・エヴァだって人々に最大限のぽかーんをもたらすものであれとさえ思っていたのだった。

でも、そういうことではなかったのだ。
これらが、ひと続きの物語であったということ。
旧シリーズを踏まえた上で新劇場版があるということ。
過去があったから今があるのだ。
テレビ版は、旧劇は、僕たちがそこで感じた思いは無駄ではなかった。

そう思った瞬間、僕の心の中のわだかまりは雪が融けるように消えていった。


■機械仕掛けの神

真希波・マリ・イラストリアス。

新旧の大きな差のひとつはこの人物が存在するということである。
ところどころ重要な役割を果たしながらも、すがすがしいほど掘り下げられないこの人物。
結局、彼女は何だったのだろうか。

ちょっとした勘繰り以上のものではないが、
単純に名義的な類似性からみると

まきなみ → マキナ

デウス・エクス・マキナ。物語を終わらせるために登場する機械仕掛けの神。




古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、
混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。
(中略)
エクス・マーキナー(機械によって)とは、この場面において神を演じる役者がクレーンのような仕掛けで舞台(オルケストラ)上に登場し、
このからくりが「機械仕掛け」と呼ばれたことによる


――Wikipedia「デウス・エクス・マキナ」


古代ギリシアの演劇において、物語をめでたしめでたしと強制的に終わらせるための舞台装置。
この登場人物が、物語を終わらせるための進行役であることを暗示しているわけである。

これまでの新劇場版ではほとんど情報のなかった彼女だが、
ここシン・エヴァに至って、色々な情報が(断片的ではあるが)開示される。

若かりしゲンドウやユイ、冬月とともにいたカットが挿入され、彼らが旧知の関係であることが暗示される。

作中で20年以上前のシーンに?
――彼女は同じ時間軸を生きている存在ではないのだ。

加えてゲンドウの回想シーンでは、彼女がゲンドウとユイを引き合わせたようなカットもあり、
原罪をそそのかすという意味で旧約聖書における「蛇」をにおわせる。
ファウストとマルグレーテを引き合わせるという意味でメフィストフェレス的でもある。

古典的な見解では蛇とサタン(Satan)とルシファー(Lucifer)は同一視されるから、
いずれにせよ、彼女は人という枠を超えた、超自然的――悪魔的な存在であるということである。

"悪魔"といっても神秘主義(グノーシス主義)的な世界観においては、
蛇は人間に知識(知恵の実)を授け、偽りの神によって創造された偽りの世界を見破る力を与える善なる存在として描かれるので、
「にせものの世界」から卒業させる存在、ということになる。
(自室に本がたくさんあって知識を愛好する、というのもこの部分と整合している)

ちなみに蛇足的に付け加えるなら、
ルシファーとは「光をもたらすもの」、明けの明星、すなわち金星を意味する。
金星はVenus、すなわち美と愛の神ヴィーナスであるから、
だから彼女が「~ないい女」、というふうに形容されるのも整合的なわけだ。

あくまでメインの物語に介入しない、潜在的なレベルでは
偽りの世界に囚われている(だから「わんこくん」なのだ)シンジが、
マリの力を借り自由を手に入れる、という物語が展開されているということだ。

あまりにもこんがらがった物語が、メタなレベルの助けを借りて初めて解決へ向かう……
まさにデウス・エクス・マキナといったところなのだろう。


■「大人になれない僕ら」の終わり

エヴァというのは大人になれない人々の物語であった。

ニアサードインパクト後、時が止まっていたシンジ。
身体は未成熟のままで時を経過したアスカ。

それと、その他過去に囚われて時が停止したままの人々。
(今更ながら、そもそもシンジ一家の名字「碇」というもの自体が現状から動かないことを連想させる。
主要登場人物の名字が戦艦にちなんでいて、碇一家を中心に皆が「停まって」いるのである)

実際彼ら――いや、僕たちだけが成長しないまま、大人になれずに過去(エヴァ)に囚われている。

そのことを、第3村での生活が端的に示している。
ヒカリと結婚して親になっているトウジ。
技能を活かし、人々の生活を支えているケンスケ。
ちょうど久しぶりの同窓会で再会した知り合いのように、
君たちが子供でいる間、世界ではそれだけの時間が流れていたんだよ――、
とでもいうように、僕たちに過酷な時の経過をつきつける。
(実際この部分が観ていて一番つらかった)。

「そうそろ大人になろうぜ」


まるでそう語りかけているかのようだ。

……でも、大人になるってどういうことなんだろう。
エヴァという物語の中では、大人になることは

責任をとること。
けじめをつけること。
始めた物語を終わらせること。

ということで示される。
そうしてはじめてシンジは時の停まった世界を抜け出し、大人になる。

ただ、現実世界において「大人になること」の持つ意味は随分変わったなと思う。
テレビ版から25年の歳月が過ぎているわけで、僕らだってそのまま何もなかったってわけじゃない。
あれから色々あって、あの頃憧れていた「大人」なんてものが実はたいしたものじゃないということは明らかになっている。
「大人になれない」が問題であったあの頃とは違って、「大人」というものの欺瞞性、それから「大人」なんていなかった――なんのことはない、みんな「大人」のふりをしていただけだったんだということがあらわになっている。
この25年で責任ある立場の「大人」たちが何をしでかしたか――そしていかに責任をとらなかったか、僕たちはこの現実でいやというほど目撃し、思い知らされている。
最善の方法は、責任なんて一切取らずに徹底して逃げ続けること――この国のよい「大人」が現在進行形で教えてくれているのは、そういうことだ。

だって責任を引き受けるだなんて――けじめをつけるなんて――そんなの骨折り損じゃん、馬鹿をみるだけじゃん。いいことないよ。誰も褒めてもくれないし。
みんなが全部忘れてほとぼりが冷めるまで、全部うやむやにして逃げ切っちゃえばいいんだよ。

そういったメッセージが、社会のそこかしこにあふれている。

大人になることは、なるほど正しい。
だけれど、その正しさは「世界平和が望ましい」というのと同じくらい無内容だ。
「大人になる」ということは、むしろ今この時代では稀有にして英雄的な行為となりつつある。
皆大人であるふりはしても、誰も進んで大人になどならないし、なりたくもないのだから。

※ ※ ※

青春は終わり、神話もまた終わる。
エヴァという牢獄に長く囚われていた人々は解放される。
それが幸せなことなのかどうかはわからない。
束縛から自由になるということは、同時に自らの選択に責任を持たねばならないということなのだから。

僕たちも大人にならなければならないのだろうか。

エヴァの世界には真希波マリがいた。
やさしい物語の救世主――デウス・エクス・マキナが。
彼女が病んだ物語を救済し、その手を取ることでシンジはやっと大人になってエヴァの世界を"卒業"できた。
25年の時を超えて、それは現代の英雄譚としてふさわしいものとなった。

でも、残された僕らは。

「エヴァは終わったけど、君はどうする――?」

その答えはもちろん、物語の中にはない。
反復記号は繰り返された物語の終わりしか意味しない。
その先に何が待っているかまでは教えてくれない。

大人になることの価値が喪失した社会で、果たして僕らは――僕ら「も」大人になるべきなのだろうか。
己の責任を引き受けけじめをつける、英雄的ではあるがしかし報われない存在に。

あるいは大人にはならずに、世のよい「大人」たちのように生きていくべきなのだろうか。
責任を他人に押し付け、どこまでも逃げ続ける――そんなこずるい生き方を。

今のところ、僕に答えはない。

少年に戻ることも大人になることもできないまま、
代わりにできるのは、夢の余韻に浸りながらせいぜい思い描くことだけだ。

どうしようもない僕らの物語を助けてくれるデウス・エクス・マキナ――永遠に来ない、救いの到来を。


*1 『ヨハネ黙示録』1章8節、21章6節、22章13節
*2 A :|| B となっているときは、A→A→Bという順番で演奏する

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